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語り部について

2011年に「ジュピター」にたくさんのご感想をいただいてから、語り部についてはいろいろ考えているのですが、そろそろその中途報告をエッセイという形で残しておいたほうがいいかな、と思いました。語り部については、拙作「第ゼロ章」ですでに方向性を宣言をしているのですが、今回はその宣言をフィクションからノンフィクションに書き換えてみようと思います。

 とりあえず今回は書きたいことだけ。

 よく、一人称では許される表現、というのがありますよね。人によって程度の差はあれ、一人称では、地の文であっても意図的に誤謬、間違ったことを書くことができます。一人称はその語り部(=登場人物)の「主観」によって書かれる物語ですから、偏見や先入観、誤った知識などを盛り込むことができるわけです。“記憶”を題材にした一人称なんてその代表で、バイアスのかかった語り部の記憶と、実際の過去の出来事とを比較して展開するストーリーなど、よく見られるものです。叙述トリックで一人称が推奨されるのも、そのほうが叙述の許容範囲が拡がって、比較的簡単になるからですね。
 でも、考えてみれば、なぜ三人称でこれをやってはいけないのでしょう? 世の中にはトンデモ本と呼ばれる楽しい本や、筆者の偏見によって書かれたコラムにまみれています。報道記事だって新聞によって見方・書き方が異なったりしますよね。それがどの程度までマニュアル化されて書かれているのか、自分は知りませんが、広く知れ渡っている「文章」というものには、たいていは筆者の「主観」が介入しているものです。同じ内容の文章を書いても、作者が異なれば大きく違いが現れるのはそのためです。
 だから、一人称では許される表現、というのを、三人称でも書いてみる。三人称の語り部(Not登場人物)に、偏見や、先入観や、誤謬や記憶などの「主観」を与えてみる。それはもちろん、「作者」とは別の存在です。すると語り部にキャラクター性が付与され、一気に信頼度が歪みだし、「読者」と「語り部」の間に、距離ができあがる。物語に対する「読者」の解釈に、可能性がうまれる。そうすることによって「物語」は、ただ享受するだけの“ストーリー”ではなく、「読者」それぞれの個性と密接にかかわった、“ナラティブ”の姿をえがきだす。

 というところで、今日はここまで。
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2014年

2012年の11月あたりに、ある分厚い本を購入しました。買ったならすぐに読めばいいものを、その膨大な情報量に、圧倒され、まとまった時間のあるときに読もうといままで引き伸ばしにしていました。一年以上経った今頃になって、ようやく読みだしたのですが、決して本を読む時間が一年以上取れなかったわけでもありません。

 2013年始めに、この文のように2012年までの総括を書いたのですが、そこには次のように書かれていました。
“今年[2013年]は、数をこなすより、1作にきちんと完全投入できるようになりたいな、と。とりあえず完成させればいい、未完の傑作よりも、完成した駄作だ。そういう考えのもとこれまで書いてきたんですが、そろそろすてっぷあっぷします。完成させたうえで(主観的に)駄作を脱します。”(「2013年」2013年1月2日記事)
 しかしその考えをもとに2013年を過ごしてみて、失敗したな、と現在は思っています。

 2012年に書いた長編作品が4作であるのに対し、2013年に書いた長編は「あむの憧憬」1作だけなのですが、ではこのただ1作に完全投入したのかといえば、答えはノーです。自分はこの作品を書き上げるのに半年以上の時間を費やしましたが、それはその期間ずっとこの作品と向き合っていたのではなく、ただ空白期間が多く含まれているだけでした。初稿は一気に、推敲はじっくり、というのが理想形だったのですが、初稿のほうにじっくり時間をかけてしまった印象です。しかもそれは、時間をかけて、ゆっくりと吟味しながら書きあげるのではなく、一気に書き上げることは書きあげて、他の時間はただなにもしなかったのです。
 さらに悪いことに、その空白期間は一応「長編の執筆期間」であったのですから、自分はその間短編も書いていなかったのです。てきすとぽいというサイトに出会ったことで、掌編はいくつか書けていたことは不幸中の幸いでしたが、とにかく2013年は書かなかった。停滞の年でした。

 ただひとつ、長編では以上のとおり失敗しましたが、短編に限れば「完全投入」がある程度成功した部分もあります。
 星新一賞に、ある方と共作で応募したのですが、その短編だけはじっくり時間をかけて推敲することができました。相手のプロットをもとに初稿を一気に書き上げ、それを相手に見てもらい、また書き直し、見てもらい、書き直し。
 2013年に創作的な進歩があったとすれば、それくらいです。やはり推敲が曲者で、肝なのです。一気に書き殴った初稿であっても、手癖がある分、ある程度の評価は得られます。しかし無論のことそれは「ある程度」でしかなく。それに気づいたからこそ、2013年は“すてっぷあっぷ”するために推敲に時間をかけるはずでしたが……結果として一年のほとんどを無駄にしてしまったようです。

 その打開策になるかはわかりませんが、とりあえず今年2014年からは、どんどん長編を書いていこうと思います。もう長編を書いていないときなんてないぜ、みたいなのを目指して。幸いにしてプロットのストックもありますから、とにかくたくさん長編を書いてやろうかと。
 推敲はどうあれ、「初稿は一気に」というスタイルは変わりません。340枚の初稿を10日で書きあげたのが今のところ自己ベストなのですが(「妖精が創った人形」)、今年はその記録を更新できたらいいなぁ、とか。

 なんだか推敲から逃避している気がしないでもないですが、まあ2013年の轍を踏むわけにはいきませんから、とりあえず別の方向から動いてみます。

 それと、これは個人的な印象かもしれませんが、やけにSFが温かくなってきましたね。空想科学祭が閉幕したぐらいの時期には、ハヤカワSFコンテストがリニューアルオープンされ、そうかと思えば今度は星新一賞が新設され。2013年1月に、隔月で開催されているある競作企画に初めて参加したのですが、SF作品であるにも関わらず賞をいただいて、驚いた覚えがあります。「どうせSFは難解だとかなんとか言うんだろ」と少し卑屈に構えていた自分が恥ずかしくなりました。
 そのこともあって、2013年は外に向けたSFを多めに書いていました。しかし個人的に、まだ違和感が拭えません。自分の書くSFはもっと内向性をもったほうがしっくりくるな、と。そのあたりの調整も含めて、今年はたくさん書いていくつもりです。

 今年もよろしくお願いします。

キャラクター造形について

いい加減この連載も定期的にやっていきたいな、と思わなくもないけれど、たぶん無理です。こうして気の向いたときに、そのうえで時間がちょうどありそうなときに、ちまちま続けていけたら御の字なんだろうなぁ。
 現時点での構想では、ここで連載している草稿がある程度たまれば、埃城のほうで体裁のととのえたやつを連載して、それが完結したあとに、決定版のを小説家になろうかどこかに投稿しようと考えているが……何年後になることやら。

 なにはともあれ、今回はオーソドックスに「キャラクター造形」について。

 小説にはキャラクターが登場する。もちろん、近代小説やらで「文」と呼ばれる描写だけを抜き出したようなジャンルや、概念や現象だけを切り取ったような、登場人物ゼロの小説も存在する。小説じゃないけど、第10回アカデミー賞を受賞した短編アニメ『風車小屋のシンフォニー』(原題:”The Old Mill”)なんかは、登場人物とか登場動物とかいうものは存在せず、ただ自然のありかたひとつを「景色」として描き出している作品のように思う。この辺の話はまたいずれ書くとして、さてキャラクター造形の話。

 キャラクターってどうやって作ればいいのだろう?
 どうやれば人間を書くことができるのだろう?
 そう考えながらプロットを立てていく。人それぞれ、作り方は多種多様にある。そのなかで個人的に、好んで使っている作り方もあれば、苦手としている作り方もある。今回はそれを紹介する。

 まず、苦手としている作り方がある。それはプロフィールを書くことだ。
 漫画のファンブックとかによく書かれているあれ。アニメの公式サイトを覗いてみるとキャラクター紹介のところによく書かれているあれ。このキャラクターはこれこれの性格をしていて、家族構成はこれこれで、血液型はAB、身長なになに、体重ひみつ、あんどもあ。プロットの段階でこれを書くのは、非常に、苦手だ。
 一度、プロットを突き詰めて書き込んだことがある。そのプロットでは、主要キャラクター一人につき、以上のようなことがノート見開き2ページにわたって書き込まれていた。作品を書き始める前から、主人公は面倒臭がりで、ヒロインはガサツでありながら細かいことによく気が付く性格で……とプロフィールを羅列していた。
 しかしどうにも、なぜ文章を書き始める前からこのキャラクターはこういう性格、と決定付けなければならないのだろう。当のキャラクターは、まだ登場さえもできていないのに。
「性格」というものは、難儀なもので、その対象を見る者によって、見る時期やタイミングによって、評価はだいぶ変わってくる。たとえば勉強のできる中学生がいたとして、その子は学校の教師からはまじめと評されるも、よくつるむ同級生たちからは、まったく異なる性格に見られているかもしれない、基本的にそういう生徒は教師にたいしてはまじめな態度をとるものだから。そしてまた、あまりつるまない同級生からは、がり勉などと評されるかもしれない。「まじめ」と「がり勉」は、そのクラスにおいて等しく勉強ができることを指す性格であっても、印象はまったく異なる。プロットにその中学生(別に高校生でもいいんだけど)を「まじめ」と書くだけでは、その一面性しか見えていないことになり、もったいない。だから「がり勉」と書き加える。それでも見えてくるのは一面性を明かりのある場所ない場所それぞれで見ているだけに過ぎない。今度は、よくつるむ同級生たちの見ているその子の性格をプロットに書き込まなければその新しい一面は見えてこない。そして今度は家族から見た性格、家族のなかでも母親の見ているものと、父親の見ているものでもだいぶ異なるかもしれない。そして困ったことにその「性格」というものは、中学生が背を伸ばすと同時にいちいち変わってゆくものなのだ。それらすべてをプロフィールに書いていれば、とてもではないが見開き2ページなんかでは足りなくなる。そして実際のところ「すべて」を書くことはできないのだ。
 ……長くなったが、要するに、「性格」は決して要約して書くことのできる代物ではなく、プロットに「性格」を書き込んだとしても、それはほんの一部を書いているにすぎないのだ。要約して書けないからこそ小説を書くのであって、プロットで完成できてしまえるのなら、小説を書く必要はない。また、それらの無理やりな「要約」は、キャラクターの可能性を閉じ込めることにもなりかねない。それが狙いなのであればともかく、プロットの段階からキャラクター造形を(特に性格)を決定してしまうのは、登場人物をはりぼてにしてしまう行為に思えるのだ。
 というのは、まあ個人的にいろいろと失敗して感じたことで、合う人がやればうまくいくと思いますです。すみません。

 で、ここからがおすすめの方法。

方法1「ちょっとだけ本文を書いてからプロットを作る、キャラクター造形を決める」
 さきほど、登場人物が登場するより先に「性格」ができているのはおかしい、といったようなことを書いた(気がする)が、だったらまずは登場させてから、その対象物を「見て」、作者という「人間(≒登場人物)」として、性格付けをする。つまり先ほどの例の中学生をひとまず作り、それに対して、教師や同級生と同じように、その中学生を「評する」ということだ。さきほどとの大きな違いは、作者は「性格」を作っているのではなく、「登場人物」を作っていることにある。「性格」は作者が作らずとも、「登場人物」に付随してやってくるものであり、またそのほうが自然な性格が生まれてくるのだ。
 で、そのレベルアップ版みたいな方法が、
 方法1-2「その登場人物が主人公の短編を書く」
 というものだ。これは時間的に厳しいことが多いので、自分もあまりやらないが、一個の完成した作品があれば、その主人公なんて、そりゃあもう対象物としては最適だろう。なんせ完成しているのだから。作者はその主人公を「見て」、ああ、こいつはこういうやつなんだ、と納得すればいい。

方法2「もう最初っからキャラクターを作ることをあきらめる」
 はいあきらめた! いつもの悪い癖すぐあきらめる! もう寝る!……しかし、あきらめることもまた、方法なのである。
 キャラクターは突き詰めればただ行動することができればなんでもいい。もう行動もいらないかもしれない。というかキャラクターってなんだ? なにをすればキャラクターなのだ?
 キャラクターが描けないのならばストーリーで魅せればいい。キャラクターなんて難しいことは考えていないで登場人物はすべて番号でもふっておけば行動くらいはできるだろう。
 なによりもストーリーを優先し、「この展開にするためには02番にこう考えさせる必要があるな」「この展開にするためにはここで01番に悲しませておけばいいな」と、ストーリー展開から逆算して登場人物の行動・思考を合理的に積み上げていく。
 そもそもキャラクター造形なんてものは、ストーリーの展開すべてのなかで、登場人物に一貫性を持たせる(矛盾を生じさせない)ためにあるようなものでもあって、もうあきらめちまえばどうにかなるよ。これまじで。

方法3「現実の人間を下敷きにする」
 ※禁じ手。
 ほどほどに……。訴えられない程度に……。つーかばれない程度に。


 あと1つ2つあったはずなんですが、書いているうちに忘れてしまいました。備忘録としてもこういう創作論みたいなもの、やっぱり書いておくべきなんでしょうね。どうせまたひょっこりと思い出すと思いますので、そのときにでも、時間と気力があえば、草稿を載せていく予定です。

 あとキャラクターつながりでもうひとつ余談。
 女を書く、とか、男を書く、というのは、個人的にあまり考えないようにしています。自分は自分とまったく同じ男を、自分のほかに見たことはありませんし。数年間ぼくっ娘ばかり書いてきて思ったことなんですが、女を書くとか、男を書くとか、そんなことしても結局おんなじ人なんていないんですから、ひとりの「人間」を書けばいいじゃない、と思うんです。上記の文章に照らして言うなら、「女を書く」「男を書く」という意識の時点で、登場人物の可能性を閉じ込めてしまっている。アニムスとかアニマとかいろいろありますからねぇ、そういう多様性のあるキャラクターを、書いていきたいもんです。

 ではまた。気の向いたときに。

2013年11月活動まとめ

7月以来になりますが月間創作活動まとめです。習慣化したいけど難しい。。

■第5回お題執筆会〈年末年始! 年越しスペシャル〉
 参加予定者の募集を開始しました。1万文字以内のテンミリオン二次創作作品を募る企画。今回のお題は、「動物」と「みえないもの」の2つです。また、新しく制限要素が加わり、「一人称限定」「世界観を本家テンミリオンのものに限定」「三点リーダ(…)とダッシュ(―)の使用禁止」という縛りプレイも用意しています。
 参加者募集期限は、一応12月7日まで。それから今年一杯が作品投稿期間、年明けから25日間が感想期間になります。まあ年末年始、忙しい時期ですので、どうも集まりは悪い気がしますが……あまり詰めて考えず軽い気持ちでご参加いただければなぁ~と。ゆるい企画です。
企画ページ(支部):http://www.shiftup.jpn.org/flash/sim/newbbs/patio.cgi?mode=view&no=32707
テンミリ掲示板(参加表明はこちらへ):http://www.shiftup.jpn.org/flash/sim/newbbs/new.cgi

■第4回俺的小説賞
 前回、前々回にひきつづき作品を応募しました。後述の掌編集の準備をしていたところ、この作品をほっておくのはもったいないな、というような作品がありましたので、こちらに出した次第です。もともとはある怪談の掌編賞に出すつもりの作品だったのですけどね、もうやらないんかな、あの公募。
 12月10日が締切で、この第4回で最後になるそうです。できればもう一作、1万文字程度のを出したいと考えていますが……間に合うか。

*――創文板 将棋祭――*
 てきすとぽいと2chを連動させた(?)企画。
 将棋を題材にした作品を募集する企画で、「盤上の夢を見る」というSFを投稿しました。
 将棋について知識を得る良い機会になりました。
 合評会があり、そちらもとても勉強になる、有意義な企画でした。

第11回てきすとぽい杯
 に参加しました。1時間15分の制限時間で即興作品を投稿する企画。
「首畑」という作品を投稿し、投票ポイント2位入賞(3作品同列2位)することができました。
 また、特別賞「首」賞もいただきました。首に味わいがあったようです。
 ありがとうございました。

突撃! 隣のプロットコンテスト
 プロットを募集するという企画。2つプロットを投稿しました。
 相も変わらず、掌編もどきのようなプロットになりました。以前まではこんな形ではなかったはずなんですが、いまではこの書き方がいちばん書きやすいようです。
 個人的には、乙一式の、起a承b転c結方式のが一番効率的な気がしているのですが、プロット作成の感覚を忘れちゃった様子。。
 プロットについては近くないうちに「物語について考える」でエッセイを書くつもりです。
 
■「ういなの短編リメイク集:10周年へ向けて」7作目追加。
「6と8ver.ぼくたちは失敗作」という短編を投稿しました。2010年に書いた「6と8」という掌編を、本格化しようとして、挫折した作品です。
 テンミリオンの10周年(2012年10月28日)に向けて連載をはじめた短編集、いったいいつ完結することやら。
 ちなみに先月、埃城のほうでテンミリ11周年を祝わせてもらっていたりします。

■年越し掌編集2013
 の準備を進めています。12月17日から「小説家になろう」にて連載開始です。
 全15作の予定です。ほとんどが他所からの転載になります。
 やっぱりSF中心。

■「あむの憧憬」
「小説家になろう」にて今年5月から10月まで連載していた長編、「あむの憧憬」を、すこし読みやすくして埃城のほうに転載しました。400字詰め原稿用紙換算で375枚。文字数150000文字です。空白がまったくないので、原稿用紙換算があまりあてになっていない気が……。
こちら:http://hokorijou.web.fc2.com/texts/longs/ams.html

※「小説家になろう」は株式会社ヒナプロジェクトの登録商標です。


 まあこんな感じだと思います。漏れがあるかもしれませんが気にしない。気にしない。
 そろそろまた長編を書き始めたいな。と思いつつ。
 ではまた。

追記

神は人間と契約をする。
 ゆえに神は完全なる部外者である。
 いいや、ちがう。に対して問うが、あなたは自身と契約を交わすことがあるというのか?
(家族もまた部外者に他ならないのだ)

「言葉」というクオリア

※あくまでも以下のテクストはフィクションです。

 以前、ある知識人的な方から、こんな問いかけを受けました。

 ――神がくださる永遠の愛、という言葉は、おかしくないか。神はこの永劫のときのなかで、宇宙が作られてから宇宙が滅ぶより先のことまでを知り尽くしておられるはずであるのに、たった人間の一生ごときの短い期間の罪で、地獄に送ってしまうものなのか。だとしたら神とはなんて自分勝手で慈悲のない存在であるのだろう、そしてもし神が慈悲深い存在であるのなら、神はもはや全知全能ではないということになる。人間が罪を犯すか、犯さないかということも全知全能であるなら知っていてしかるべきだからだ。神なんて矛盾だらけだ。教えてくれ、神はすべてを知っているうえで、人類を玩具にしている悪魔なのか、それとも、神はすべては知らない無能者なのか。

 私は唯一神のことは創造主としか思っていません(つまり信じている)。だからどうにも、彼の論旨には、未来のことなんて知るかボケぇ、という感想しか抱けなかったのですが、彼の語りの巧さもあり、こういう考え方もあるよなぁ、ちゃんと説明できるようにならないとなぁ、と自省したわけでもあります。
 そのときはとりあえず、「神はなんでも知っていると思いますよ」と適当に流したのですが、流すと同時に、心のなかではひそかにひとつの回答を見つけていました。あまりかかわりたくなかったので、彼自身に話すことはなかった、というか、いまこのブログを書くまで胸の内に置いておいた(決して秘めているわけではない)のですが。
 まあなにが言いたいかというと、神が全能か無能かを語る以前に、「神がくださる永遠の愛」、という「言葉」のほうを、疑ってかかるべきなんじゃないのかなぁ、と思ったりするわけです。

 さてさて、前置きが長くなりましたが、今回は「言葉」の話です。
(先に申し上げておきますが、私は決して、宗教批判がしたいのではありません。宗教無宗教にかかわらす、「言葉」に支配されてしまっている人間というものを、いぢめてやりたいのです)

 言葉はすべて多義的です。「はり」だけ聞いて、「針」という意味も、「張り」という意味もありえます。そういう同音異義語の類だけでもなく、文脈によっても意味は変わってきます。「きみは針だ」と男が発音したとして、そのパロールは対象がなにであるかによって異なるはずです。針に向かって、「きみは針だ」といっているのならば、それは少々おかしな言動ではありますが、事実を述べているのに対し、人に対して、「きみは針だ」といっているのならば、それは「きみは針のように鋭い人だ」、とか、「きみは針のように危険な人だ」、とか、比喩になっていきます。しかもその比喩も、針のようになんなのか、というものは、文脈や使う人、つかわれる人によって、さまざまです。
 それだけではありません。「オレンジ」という単語ひとつの概念にしても、意味は多様に拡がっているものです。まず、地域や国によってオレンジのもたらす意味は異なってきます。オレンジとは果実の一種である、という共通している概念があるだけで、たとえばオレンジの栽培が盛んな地域では、「オレンジ」という言葉に「うちの地域からよく出荷される果物」という意味が加わります。他の地域から見たらわけわからない意味ですね。しかしその地域では違和感なく通用する意味なのです。私のような、「オレンジ」をある意味神聖視している人間もいます。そういうよく分からない人間にとっての「オレンジ」と、「オレンジ」を単なる果実の一種としか考えていない人間の間には、意味において大きな溝ができているものです。
 要するに、言葉というものには、それを有する人間の「歴史」によって、まったく多様な様相をしているものなのです。蓄積される知識や経験、道端でふと耳にした雑音、そのような些細な違いから、人生というものは構成されています、そしてそれは、「言葉」の意味と密接につながっているのです。
「言葉」というクオリア。人間は「言葉」を使っている限り、イデアの言葉を認識することはできません。言葉は常に多義的であり、決してたったひとつの意味に収束する言葉なんてものは存在できない。SF的あるいは純文学的に表現すれば、塔のくずれたときから、人間は神の言葉を聞くことができなくなったのです。

 この自覚は、同時に聖書への疑念を生み出します。それは実際のところ、聖書そのものに対する疑念ではなく、聖書を読んでいるあなたに対する疑念です。聖書は、「言葉」に支配されている限りは、教典というには不充分に思えて仕方がない。そしてそれはつまり、人間なるものが、まったくもって不完全であることの論拠にほかならないのです。
 さあ、イデアの言葉を――。「本当の意味」での統一言語を。
 宗教を捨てた先にある神の姿は、とてもいごこちのよいものですよ。

「独特」を意図的に作るには

さっそくだが、「独特な文章」というものには2種類がある。ホンモノか、ニセモノかの2種類だ。

(作品を読んでいると、その作品がどのカテゴリにあるかは関係なく、「独特」だと感じることがある。その“感じ”、抽象的なその感じを、ここでは「独特」という言葉の意味だとしよう)

 ホンモノの「独特」は、他の作品群と比べることはできない。
 比較、という枠組みからはずれ、ときにジャンルからもはずれ、
 説明や解説が野暮以外のなにものでもなくなるもの、それがホンモノの独特だ。

 では、ニセモノの独特とは。
 “――独特は作れる。”
 他の作品群と比べたうえで、“数値的に”逸脱すれば、それは「独特」になりえるのだ。

「文体診断ロゴーン」*1の参考テキスト64作品*2統計によると、文体の平均値は以下のようになるという。
  • 平均文長:52.20文字
  • 平均句読点間隔:17.53文字
  • 特殊語出現率:11.60%
  • 名詞出現率:28.66%
  • 動詞出現率:9.75%
  • 助詞出現率:29.48%
  • 助動詞出現率:12.08%
  • ひらがな出現率:54.03%
  • カタカナ出現率:0.81%
  • 異なり形態素比率*3:23.24%
 あくまでこれはひとつの参考に過ぎないが、この平均値をふまえたうえで、意図的に平均値を逸脱した文章を書けば、それは「独特な文体」になる。
 拙作を引き合いにすれば、オノマトペの比率を大きく高めたり、一文をとにかく長くしたり、改行の頻度を極度に高めたり低めたり、……などがある。

(文体だけでなく、題材やストーリーでも「独特」は作ることのできるものだが、その話はまたいつか)

 であるから、「独特」を意図的に作りたいのであれば、その他の「独特でない」平均値を知る必要がある。インプットはその役割も担っているのだ。
 本をさほど読まずとも小説らしきものを書くことはできる。その他の映画や漫画や音楽など、そして実際の経験からインプットしたものを下敷きにすれば、本だけを下敷きにしたよりもずっと良質な小説が生まれるからだ。しかし、「文体」の意味においては、本をインプットするのはとても大切なことだ。

(ところで、これは同時に「小説を書きたければ本は読むべきではない」という言葉の裏づけともなるかもしれない。最初から平均値を知らなければ、平均に踊らされる心配もなく、純粋にはじめからあった自分の文体を紡ぎだすことができるかもしれないからだ――まあ、それは要するに、自分がはじめから有しているもの、つまり才能に頼る形になるので、あまりおすすめできない)
 
 なお、ジャーナリストであり作家である穂高健一は、エッセイにて「句点(。)は平均して45文字ていど」「読点(、)は平均的に15字前後」の間隔で入れるのが最も読みやすいと述べられながら、文章にも老齢化――つまり年齢層による傾向があることに言及されている。いわく年配者ほど句読点が少なくなる傾向があるのだそうだ*4。平均をはかり独特の境界線を見極める上では、自身の作品を読む人の年齢層も意識する必要があるらしい。

 ホンモノの独特を修得するには、とてつもない努力と経験が必要になるだろうが、ニセモノの独特(しかし本質的にはホンモノの独特の同等のものだ)はわざと「みんなとちがうこと」をすればいいのであるから、「みんな」がなにか見えている分、やりやすい。
 しかしともすればそれは、単なる「読みにくい」文章だ。「独特」という言葉がときに苦笑いのお世辞として使われる言葉であることを鑑みれば、「独特」と「受け入れにくい」ことは背中合わせではあるのだろうが、この問題を解決しない限り、たとえそれが少しの労力で効率的に作り上げることのできた独特であったとしても、効用は薄いかもしれない。
 独特は作れる。では、作ったとして、その先にあるものはなんだろう?

 今日はここまで。ではでは。



*1:http://logoon.org/
*2:芥川龍之介「杜子春」、太宰治「桜桃」、宮沢賢治「風の又三郎」、夏目漱石「それから」、海野十三「東京要塞」、岩波茂雄「読書子に寄す」、菊池寛「恩讐の彼方に」、九鬼周造「「いき」の構造」、幸田露伴「蒲生氏郷」、坂口安吾「堕落論」、三木清「語られざる哲学」、寺田寅彦「漫画と科学」、小林多喜二「蟹工船」、新美南吉「ごん狐」、森鴎外「ヰタ・セクスアリス」、西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」、石原莞爾「最終戦争論・戦争史大観」、石川啄木「病院の窓」、中原中也「我が生活」、中島敦「山月記」、直木三十五「巌流島」、島崎藤村「破戒」、徳冨蘆花「謀叛論(草稿)」、福沢諭吉「学問のすすめ」、北原白秋「白帝城」、北村透谷「厭世詩家と女性」、末弘厳太郎「嘘の効用」、有島武郎「或る女」、浅田次郎「スターダスト・レビュー」、井上靖「道」、遠藤周作「白い人」、阿川弘之「年年歳歳」、阿刀田高「靴の行方」、井上ひさし「あくる朝の蝉」、岡倉天心「美術上の急務」、紀田順一郎「南方熊楠」、吉川英治「べんがら炬燵」、江戸川乱歩「押絵と旅する男」、佐高信「遺言と弔辞」、三田誠広「碧眼」、三島由紀夫「女方」、志賀直哉「邦子」、小田実「玉砕」、松たか子「松のひとりごと」、松本幸四郎「役者幸四郎の俳優俳談」、川端康成「片腕」、大宅壮一「「無思想人」宣言」、谷崎潤一郎「京羽二重」、猪瀬直樹「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」、田中美知太郎「古典教育雑感」、梅原猛「闇のパトス 不安と絶望」、野間清治「『キング』創刊前後」、和辻哲郎「偶像崇拝の心理」、吉田茂「第18回国会所信表明演説」、岸信介「第26回国会所信表明演説」、池田勇人「第37回国会所信表明演説」、佐藤栄作「第47回国会所信表明演説」、田中角栄「第70回国会所信表明演説」、中曽根康弘「第97回国会所信表明演説」、橋本龍太郎「第139回国会所信表明演説」、小泉純一郎「第151回国会所信表明演説」、麻生太郎「第170回国会所信表明演説」、団藤重光「反対意見」(最大判昭和56年12月16日民集35巻10号1369頁)、伊藤正己「反対意見」(最大判昭和63年6月1日民集42巻5号277頁)の64テキスト。テクスト数はさほど多くなく、近代寄りの作品郡であるため、“現代”の平均値と捉えることができない点を考慮されたい。
*3:文章中で一度しか出ていない形態素の割合
*4:「第46回・元気100エッセイ教室=文章の若返り」、穂高健一ワールド、http://www.hodaka-kenich.com/Novelist/2011/02/04014115.php、2013年11月9日閲覧

星新一賞

星新一賞に、共作として2作出しました。ご協力くださった方々はほんとうにありがとうございました。
 SF系の公募が急に増えましたねえ。SF人間としては嬉しい限りです。温かくなっていくのを感じます。
 今回はご報告だけ。
 ではでは。

高橋しん『最終兵器彼女』について

※以下、『最終兵器彼女』のネタバレを含みます。充分にご注意ください。




 セカイ系、というジャンルがある。ゼロ年代の台頭、個のなかに世界を見出した逃避のテクスト郡である――。
 その代名詞とも呼べる作品が、漫画『最終兵器彼女』なのであるが、この作品でえがかれるのは徹底してシュウジちせならびにその周囲の「人間」であり、国の対立、戦争、というものは、語られない。結局なにと戦っていたんや……。というのはおそらくほとんどの方がいだかれた感想だろう。
 えがかれているのは結局のところ恋愛物語に帰結されるのだから、そしてそれこそがセカイ系といわれる所以なのであるから、舞台背景について言及するのは野暮というものだ。しかし野暮なのを承知で、戦争の相手はなんだったのか、という疑問について言及するならば、個人的には答えが出ている。それは、地球そのものではないか。
実を言うと地球はもうだめです。
突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
 ちせが偶然に戦争に巻き込まれ、人間たちが死に絶えていくなか、地球もまた大きな変動を遂げている。それはちせたちの境遇とは違い、偶然とは思えない。作中にも、ガイア説を思わせる叙述が含まれている(たしか最終巻あたりに。確認し次第具体的にどこであるか書き加えておきます)。
 そしてこれは発想の飛躍になるが(作品の範疇から逸脱し、個人の主観として作品を“娯読”することになるが――)「人間」もまた「地球」の一部に他ならないのであるから、地球がおのれを治癒
するのであれば、「人間」が動き出すのもまた道理。地球の意思によって、人間は戦争をおこし、そして滅びたのではないか――地球の治癒作用によって。
 ……まあ、なんにせよ良いSFですよね。そして良い恋愛。

小伏史央へ

またペンネームを変えました。ペンネームを変えた、といっても、いままではテイブミウイナの音はそのままに、表記だけ変えてきていましたが、今回は完全に、一から直した形です。だからたぶん、変えるのは今度で最後だと思います。
 以前ある公募の選考通過タイトルを眺めていたところ、へんてこりんな名前を見つけて、うわなんだこの名前、純文寄りの公募でこの筆名は恥ずかしいだろ、どこのどいつだ、と思ったら自分だった、ということがあります。まあ出す前に気付けよって話ですが、いざ公に、ぽんと名前だけ押し出された姿を見ると、この名前でやっていくのは厳しいだろうなーと実感していたりしたんですねーわたくしごとですが。それから常々、ペンネームを落ち着いたものに変えよう変えようと考えていたところ、ずるずるとここまでやってきたわけですが。
 今回、星新一賞に応募するんですが、それにならって実行に移した次第です。小伏史央。コブセフミオって読みます。小伏の小の字は小松左京の小、小伏の伏の字は井伏鱒二の伏! ということで。

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小伏史央(こぶせふみお)

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