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「言葉」というクオリア

※あくまでも以下のテクストはフィクションです。

 以前、ある知識人的な方から、こんな問いかけを受けました。

 ――神がくださる永遠の愛、という言葉は、おかしくないか。神はこの永劫のときのなかで、宇宙が作られてから宇宙が滅ぶより先のことまでを知り尽くしておられるはずであるのに、たった人間の一生ごときの短い期間の罪で、地獄に送ってしまうものなのか。だとしたら神とはなんて自分勝手で慈悲のない存在であるのだろう、そしてもし神が慈悲深い存在であるのなら、神はもはや全知全能ではないということになる。人間が罪を犯すか、犯さないかということも全知全能であるなら知っていてしかるべきだからだ。神なんて矛盾だらけだ。教えてくれ、神はすべてを知っているうえで、人類を玩具にしている悪魔なのか、それとも、神はすべては知らない無能者なのか。

 私は唯一神のことは創造主としか思っていません(つまり信じている)。だからどうにも、彼の論旨には、未来のことなんて知るかボケぇ、という感想しか抱けなかったのですが、彼の語りの巧さもあり、こういう考え方もあるよなぁ、ちゃんと説明できるようにならないとなぁ、と自省したわけでもあります。
 そのときはとりあえず、「神はなんでも知っていると思いますよ」と適当に流したのですが、流すと同時に、心のなかではひそかにひとつの回答を見つけていました。あまりかかわりたくなかったので、彼自身に話すことはなかった、というか、いまこのブログを書くまで胸の内に置いておいた(決して秘めているわけではない)のですが。
 まあなにが言いたいかというと、神が全能か無能かを語る以前に、「神がくださる永遠の愛」、という「言葉」のほうを、疑ってかかるべきなんじゃないのかなぁ、と思ったりするわけです。

 さてさて、前置きが長くなりましたが、今回は「言葉」の話です。
(先に申し上げておきますが、私は決して、宗教批判がしたいのではありません。宗教無宗教にかかわらす、「言葉」に支配されてしまっている人間というものを、いぢめてやりたいのです)

 言葉はすべて多義的です。「はり」だけ聞いて、「針」という意味も、「張り」という意味もありえます。そういう同音異義語の類だけでもなく、文脈によっても意味は変わってきます。「きみは針だ」と男が発音したとして、そのパロールは対象がなにであるかによって異なるはずです。針に向かって、「きみは針だ」といっているのならば、それは少々おかしな言動ではありますが、事実を述べているのに対し、人に対して、「きみは針だ」といっているのならば、それは「きみは針のように鋭い人だ」、とか、「きみは針のように危険な人だ」、とか、比喩になっていきます。しかもその比喩も、針のようになんなのか、というものは、文脈や使う人、つかわれる人によって、さまざまです。
 それだけではありません。「オレンジ」という単語ひとつの概念にしても、意味は多様に拡がっているものです。まず、地域や国によってオレンジのもたらす意味は異なってきます。オレンジとは果実の一種である、という共通している概念があるだけで、たとえばオレンジの栽培が盛んな地域では、「オレンジ」という言葉に「うちの地域からよく出荷される果物」という意味が加わります。他の地域から見たらわけわからない意味ですね。しかしその地域では違和感なく通用する意味なのです。私のような、「オレンジ」をある意味神聖視している人間もいます。そういうよく分からない人間にとっての「オレンジ」と、「オレンジ」を単なる果実の一種としか考えていない人間の間には、意味において大きな溝ができているものです。
 要するに、言葉というものには、それを有する人間の「歴史」によって、まったく多様な様相をしているものなのです。蓄積される知識や経験、道端でふと耳にした雑音、そのような些細な違いから、人生というものは構成されています、そしてそれは、「言葉」の意味と密接につながっているのです。
「言葉」というクオリア。人間は「言葉」を使っている限り、イデアの言葉を認識することはできません。言葉は常に多義的であり、決してたったひとつの意味に収束する言葉なんてものは存在できない。SF的あるいは純文学的に表現すれば、塔のくずれたときから、人間は神の言葉を聞くことができなくなったのです。

 この自覚は、同時に聖書への疑念を生み出します。それは実際のところ、聖書そのものに対する疑念ではなく、聖書を読んでいるあなたに対する疑念です。聖書は、「言葉」に支配されている限りは、教典というには不充分に思えて仕方がない。そしてそれはつまり、人間なるものが、まったくもって不完全であることの論拠にほかならないのです。
 さあ、イデアの言葉を――。「本当の意味」での統一言語を。
 宗教を捨てた先にある神の姿は、とてもいごこちのよいものですよ。
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小伏史央(こぶせふみお)

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