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語り部について

2011年に「ジュピター」にたくさんのご感想をいただいてから、語り部についてはいろいろ考えているのですが、そろそろその中途報告をエッセイという形で残しておいたほうがいいかな、と思いました。語り部については、拙作「第ゼロ章」ですでに方向性を宣言をしているのですが、今回はその宣言をフィクションからノンフィクションに書き換えてみようと思います。

 とりあえず今回は書きたいことだけ。

 よく、一人称では許される表現、というのがありますよね。人によって程度の差はあれ、一人称では、地の文であっても意図的に誤謬、間違ったことを書くことができます。一人称はその語り部(=登場人物)の「主観」によって書かれる物語ですから、偏見や先入観、誤った知識などを盛り込むことができるわけです。“記憶”を題材にした一人称なんてその代表で、バイアスのかかった語り部の記憶と、実際の過去の出来事とを比較して展開するストーリーなど、よく見られるものです。叙述トリックで一人称が推奨されるのも、そのほうが叙述の許容範囲が拡がって、比較的簡単になるからですね。
 でも、考えてみれば、なぜ三人称でこれをやってはいけないのでしょう? 世の中にはトンデモ本と呼ばれる楽しい本や、筆者の偏見によって書かれたコラムにまみれています。報道記事だって新聞によって見方・書き方が異なったりしますよね。それがどの程度までマニュアル化されて書かれているのか、自分は知りませんが、広く知れ渡っている「文章」というものには、たいていは筆者の「主観」が介入しているものです。同じ内容の文章を書いても、作者が異なれば大きく違いが現れるのはそのためです。
 だから、一人称では許される表現、というのを、三人称でも書いてみる。三人称の語り部(Not登場人物)に、偏見や、先入観や、誤謬や記憶などの「主観」を与えてみる。それはもちろん、「作者」とは別の存在です。すると語り部にキャラクター性が付与され、一気に信頼度が歪みだし、「読者」と「語り部」の間に、距離ができあがる。物語に対する「読者」の解釈に、可能性がうまれる。そうすることによって「物語」は、ただ享受するだけの“ストーリー”ではなく、「読者」それぞれの個性と密接にかかわった、“ナラティブ”の姿をえがきだす。

 というところで、今日はここまで。
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小伏史央(こぶせふみお)

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