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[感想]フィンディル「二人(前展)」(第6回お題執筆会)

※第6回お題執筆会参加作品。2年前に書いた感想です。小説板のデータ破損後、そのまま非公開となっていましたが、良い作品ですので感想を公開します。
※作品は作者様のブログで読むことができます。(こちら
※ネタバレを含みます。
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 新しい。一読して感じたのは、その一言だった。この形式の小説作品は、いままで見たことがなかったのだ。
 たとえば、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」がある。映画「ネバーエンディング・ストーリー」の原作となった小説なので、ご存じの方も多いだろう。この作品は現実世界を舞台にしたパートと、作中の本の中の世界を舞台にしたパートに分けられるが、現実世界の部分の文字をあかね色に、本の世界を緑色にして印刷するという豪華な装丁がなされている。
 「二人(前展)」は、まさにその2色刷りを、“1行ごとに”展開した形式を持っている。そしてそれは1行ごとであると同時に、“同一の行”で展開されているとも言えるのだ。
 「はてしない物語」のような形式の作品は、いくらでもある。交互に物語や視点が入れ替わっていく、という形式の作品はわざわざ例を挙げるまでもないだろう。それらの作品のように、“入れ替え”の仕掛けをもった作品はいくらでもあった。しかし、それら“入れ替え”が、まったく同時に進行していくとしたら、どうだろう。そしてその「同時」とは、決して時系列上の「同時」ではなく、叙述上の、文章そのものとしての「同時」なのだ。
 ウェブ小説が広まったことにより、小説の可能性もまた大いに広がった。小説の本文にリンクを貼ることができるようになり、音楽を流すことができるようになった。Javascriptなどを利用することで一度読んだ部分を、もう一度読み返すと別の内容が浮かび上がるような仕様にすることも可能になった。「紙」という物理的な制約から飛び出た表現の数々は、現在もなお種類を増やしていくばかりだ。
 本作の「新しさ」も、この系譜に属するといえる。“入れ替え”の構成を、紙媒体から脱出し表現した。この発想は、手放しで称賛される他ない素晴らしいものだ。この形式で描くことによって、たとえば男女のユニットがそれぞれ別の歌詞を同時に歌っているような読み合いを提示することができる。二つの物語を、読者に同時に読ませているようなものなのだから、従来の“入れ替え”形式と比べ、より物語同士が密接な関係を結べるようになる。ふたつの物語を“読み比べられる”のではなく、最初からふたつの物語を同時に“読めている”という違いは、小さいようでとても大きい。そうすることによって本作は、二人の登場人物の密接なつながりを、いかんなく発揮することに成功しているのだ。

 魔王討伐の旅に出た男と、その帰りを待つ女のそれぞれのストーリーが進行されていく。二人のいわば「心」とでもいうものが呼応していくのが見どころだ。ある夜流れ星が流れ、双方帰ることができるように願う。そして三日後、最後の戦闘が繰り広げられ、魔王にとどめを刺した瞬間、男は気を失ってしまう。その不安が女を支配し、男の無事を哀願していると、女もふいに気を失ってしまう。そして二人は同時に気を取り戻し、再会を果たす。呼応していた「心」は、ついに隣り合わせになり、そうなるともはや同じ心を有しているかのように叙述が混ざり合っていく。
 実に、この「新しさ」を最大限に活かしたストーリー展開だったと思う。ワンシーンワンシーンの文字数に気を遣わねばならないため、従来の文字数合わせともまた異なる気苦労が必要になったことだろう。意欲作だった。

 ただ、まずこの形式なら改行も自由にできたはずなのに、なぜ改行をしなかったのかということを指摘しておく。「三日後。」「十日後。」のところが特にそうで、どうせ二人のタイミングは合っているのだから、改行をしても問題はなかったはずだ。そのまま押しかけるように叙述が進んでゆくので、時間の流れに違和感が強く残った。この二か所以外にも、気絶していた時間はそんな短いものなのか、だとか、戦闘している時間と花に水をやる時間が同じなのかなど、やはり「時間の流れ」に違和感が残った。

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小伏史央(こぶせふみお)

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