ちょっと雑記。
人によるでしょうが、作品を組み立てる際、ほとんどの方が「普通と違う、自分だけの」作品を目指そうとするんだと思うんですよね。では「普通と違う」とはなんなのか。「自分だけの」とはどういったことを指すのか。
まず前置きとして、「自分だけの」は「普通と違う」に内包されていると考えて話を進めますね。檜や松が「木」に内包されてるみたいな感じです。一応。
んで、「普通と違う」作品を起こす方法は、大まかに2種類あると思うんです。
それが、「個性的」と「奇を衒う」。
まず「奇を衒う」を自分なりに述べますと、「他のものと比べたうえで、他のものと異なるもの」って感じになります。例を挙げますと、最近流行り(?)の「僕の○○は□□~」系のタイトルで、主人公を僕っ娘にしたりだとか。近ごろ長いタイトルが多いなぁと思ったのなら、いっそのことタイトルを1文字だけにしてみたり。童話をみんなで書こうというとき、子どもには理解できないような設定(法律など)を入れたりだとか。(実は自作語りだなんて口が裂けても言えないw)
こういうのって、その「他のもの」があるからこそ成り立っているんですよね。マイナー嗜好とかいうやつもそうです。メジャーがあるからこそマイナーが光る。そういう作品を僕は「奇を衒う」作品だと思っています。(※マイナー=「奇を衒う」という意味ではないです。むしろ逆な気がします)
では「個性的」とはなんなのかといえば、「他のものと比べられない異なるもの」って感じなんだと思うんです。こうだからこう、ではなくて、ただそこにあるというような。例を挙げると、梶井基次郎の『檸檬』や、フランツ・カフカの『変身』でしょうか。「みんなは画集の上に檸檬なんて置かなかったから、自分は置いちゃうぜよ」とか、「朝起きてみてもみんな人間のままだから、ザムザは毒虫になってみたよ!」とかそんなわけないですよね。これは「みんな」と比べているのではなくて、ただ「檸檬を置いたり」「毒虫になったり」しただけ。みんながしなかったからしたのではないんですね。
「個性的」も「奇を衒う」も、どちらも「普通と違う」に属します。けれども、「自分だけの」に入るのは、「個性的」だけなんじゃないでしょうか。「奇を衒う」は、他のものがあってこそ成り立つ、つまり、元よりある尺度に従わないといけなくなるんじゃないかな、と。身長とか体重とか、ヒトが世界で自分ひとりだったら気にしませんよね。比べるものがないのですから。
まあ「奇を衒う」作品というのも、その設定を深く深く掘り下げていったなら、他のものとの溝が大きくなって、「個性的」に至るような気もします。世界観ってやつですか。
それに、「個性的」だから良い作品だとも限らないわけですよね。むしろ個性的だから読めない、とかいわれたりもするでしょうし。あれ、つまるところ僕はなにが言いたかったのだろう……。
すんごい偏見で言いますけど、僕は「奇を衒う」と「個性的」では、「個性的」なものを作るほうが楽しいです。ですけど実は、読んでて楽しいのは「奇を衒う」ほうだったりするんです……。
以上、ここ半年間ほどの活動で思ったことについての雑記でした。