ちょい久々に自作語り。ネタバレ含みます。
自分、物語の〈はじまり〉と〈おわり〉がつながる作品が多いです。ええ、多いです。
たとえば「ぐだぐだ至上主義」という2011年の作品では、冒頭で主人公が自身が死ぬ夢を見るんですけど、ラストでまた同じ夢を見るんです。この夢、どっかで見たことあるなぁと思いながらも、冒頭のときに見たことは忘れちゃってるんですけど(夢の内容とか数週間すれば忘れますよね? ね?)。他に、「ム」という長編も、初稿の段階でははじまりとおわりが、主人公の日記でつながってるんですよねー。
今年はじめに「小説家になろう」に投稿した「第ゼロ章」も、そういう作風になってるんです。「第ゼロ章」にいただいたご感想で覚ったことなんですが、ははあ、自分って回帰する作風、一周まわってきた作風が好きなのだろうなぁと。実際好きかどうかはよくわかりませんが、書きやすいんだろうなぁと。
……それで、この起源はどこなのだろう、なんの影響なのだろう、とか思ったわけですが。
はい。小松左京の『果しなき流れの果に』ですね!
ネタバレになりますので詳しいことは伏せますが、宇宙を駆け巡った先に落ち着く茶の間の風景――この日本人的な輪廻的な物語に憧れているのだろうなぁと。仏語というより自然の有りような意味での輪廻。開高健のエッセイを思い出すもんです。
まあそんなこんなな自作語りでした。
こんなこと語ったのにもきっかけがありまして、まあ、昨日まで書いていたスペオペ短編が、まさしくこんな作風でした。追記(2013/04/04) 商標ガイドラインの追加につき「なろう」から「小説家になろう」に修正
※「小説家になろう」は株式会社ヒナプロジェクトの登録商標です。
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