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不安になる文章:「は」と「が」の使い分けについて

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「象は鼻が長い」というフレーズ、聞いたことのある方もいらっしゃると思います。言語学者、三上章が、日本語の主語について論じられたときに使われた例文のひとつです。書籍のタイトルにもなっていますね。
 さて突然ですが、「象は鼻が長い」この文の主語はどこだと思いますか。「象は」「鼻が」の二つがあることに気付くと思います。英語と異なり、日本語は一文に主語が二つ以上あることが可能なのです。
 しかし、これらは本当に主語だと言えるでしょうか?

 副助詞である「は」は、必ずしも主語を表す助詞ではありません。「水は飲まない。酒は飲む」というフレーズがあったとして(この飲んだくれメ!)「水は」「酒は」は主語というよりも、目的語ですね。「私は水は飲まない」「私は酒は飲む」とすればより目的語らしく映ると思います。この飲んだくれめ。他にも、「バイトは行く」というフレーズがあれば、学校には行かないけどバイトには行くという学生の台詞が浮かび上がると思います。以上のように「は」は「を」「に」などの代わりとして使うことができるのです。
 それだけでなく、「は」は名詞以外にもつながることができるという性質を持っています。格助詞「が」が名詞にだけ付くのに対し、「は」は「バイトには行く」「悪くはない」「はっきりとは言えない」のように、あらゆる品詞の単語に付くことができます。従って「が」と比べて、主語であると見做せる頻度もそれだけ低くなるのです。というか言ってしまえば「は」は主語を表すものではないのです。
 さらに掘り下げてみれば、例えば「私はとんこつラーメン」という台詞があったとしましょう。ラーメン屋で注文するときに言いそうなフレーズですね。これは決して「私=とんこつラーメン」という意味ではなく、「私はとんこつラーメンを注文する」という意思表示の意味であることは、ご理解いただけると思います。この例の場合は、「は」の代わりに「が」を使って、「私がとんこつラーメン」と(注文時というよりラーメンが来たときの状況とかで)言うこともできますが、ここで使われている「は」もやはり、主語ではなく他の何かであることが窺えるでしょう。では「他の何か」とは何か。

 先に言ってしまえば、三上章はそれを〈題目〉なのだと言っています。
 再び「象は鼻が長い」を見てみましょう。
「は」を〈題目〉の役割として見ると、次のように文を分解できるのではないでしょうか。
   「象は」→題目(トピックの提示)
   「鼻が長い」→題目に対するコメント
 つまりここの「は」というものは主語ではなく、「~といえば」「~と来たら」「~に関して言えば」という、テクストのトピックのような役割なのではないか、というのです。

 この〈題目〉は、「は」を用いた単純な文でも適用させることができます。次のような文があったとしましょう。
a. 姉が料理をしている。
b. 姉は料理をしている。
 どちらも同じような文に見えますが、主格の「が」を使った単純な文であるaに対し、bは「姉に関して言えば」というトピックに対して、「料理をしている」とコメントをするという文意の流れが見られるのです。言い換えれば、bは「姉→料理をしている」と文意の中に矢印が見られるのに対し、aは「姉が料理をしている」という一文全体を一塊として捉えることができるのです。
 より文を長くすれば、その違いも分かりやすくなると思います。
a. 姉が料理をしているとき、私は昼寝をしていた。
b. 姉は料理をしているとき、私は昼寝をしていた。
 いかがでしょう。bが不自然な文になっているようには思いませんか。aが“「姉が料理をしている」とき、私は昼寝をしていた”というように、前半部が一塊になっているのに対し、bは「姉に関していえば料理をしているとき、私は昼寝をしていた」というように、「姉は」が私の部分にまで侵食してこようとしているのが窺えます。「は」が〈題目〉の役割を果たしているがために、従属節であることを無視して「姉は」が最後までかかろうとしてしまうのです。トピックなのですから、文の最後までを支配してしまうのですね。


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 大まかな「は」と「が」の違いは以上です。より詳しい説明は書籍などを読んでいただくとして、それでは以上のことを踏まえて、本題に入ります。腐っても創作論エッセイ、この違いを創作に活かさない手はありません。
「は」は〈題目〉であり、「~といえば」のように言い換えをすることが可能。この意識だけ持っていれば、校正のとき役立つことがあります。人によりますが、自分のようにたいてい初稿はとにかく書き殴るタイプの人は、一旦書きあがるまで振り返ることをしませんから、不自然な日本語を知らず知らずのままに書いていることがあります。また、分量が膨大になっていくとそれだけ文章の違和感は緩和されてしまうものですから、気づきにくくなる場合もあるでしょう。それらを論理的に見つけ出し、校正するうえでは、〈題目〉の考え方は役に立つものだと思います。

 と、それだけでなく(ここから先が一番言いたかった)、原則を知っていれば、それを崩すこともまた容易になります。従属節の主語に「は」を使うことが、〈題目〉として不自然であるのなら、あえてそのように書けば、あら簡単。不自然な文が出来上がっている。
a. 姉が料理をしているとき、私は昼寝をしていた。夢を見た。ピーマンに食べられそうになる夢だ。ピーマンは短気な奴が多い。昨日出たピーマンの肉詰め。ピーマンの部分があまりに苦いから、私は肉だけ食べたのだった。だからピーマンの奴ら、私に復讐しに来たんだ。
 この文章の、〈題目〉として使われている「は」を「が」に、従属節の「が」を「は」に変えてみます。
b. 姉は料理をしているとき、私は昼寝をしていた。夢を見た。ピーマンに食べられそうになる夢だ。ピーマンが短気な奴が多い。昨日出たピーマンの肉詰め。ピーマンの部分はあまりに苦いから、私は肉だけ食べたのだった。だからピーマンの奴ら、私に復讐しに来たんだ。
 個人差はあるでしょうが、読んでいて不安になったと思います。特に「ピーマンが短気な奴が多い」には我ながらぞわぞわきます。

 以上のように、「は」と「が」は似ているようでいて大きな違いを持っています。その違いを知り、あえてその逆を行くだけで、ある種機械的な要領で巧みな文章表現を演出することができる。
 ということで、「不安になる文章」を書くテクニックのひとつでした。
 ではまた。
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疑問符・感嘆符直後の空白と三点リーダについて

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 疑問符や感嘆符などの記号の後には空白を入れる。出版物でよく推奨されているという表記ルールです。最近Webではむしろ空けないルールを採用しているメディアや作者もいらっしゃいますし、今回その是非については考えませんが、自分は前者のルールを採用して執筆しています。そのほうが個人的に見やすいからです。
 しかし、記号の後に空白を入れず、詰めたほうが読みやすいという方もいらっしゃいます。また行末のぶら下げがなされにくい小説投稿サイトなどのレイアウトでは、記号の後に空白を入れると、つながっているはずの段落が二つに分割されているように見えてしまうこともあるようです。
 ではなぜ小伏は、上記の問題点を無視して、「個人的に見やすいから」という理由だけで空白を空けているのか。以下の二つの文を見比べてみてください。

A. 私は美しい? 本を捨てる。
B. 私は美しい?本を捨てる。

 どちらも1「私は自分が美しいか否かを何者かに訊き、そして本を捨てる」、2「美しいといわれているらしい本を私は捨てる」の二通りの意味にとれる悪文です。しかしこの二つの悪文の中で、より文意の区切りがわかりやすいのはどちらでしょうか。
 Bが一定間隔で文字が連なっているのに対し、Aは疑問符直後の空白によって、視覚的な区切りが施されています。これは、関連する情報のグループを視覚的にも分類分けする、デザインでいうところの「近接」の原則と似ています(Robin Williams「ノンデザイナーズ・デザインブック」)。「私は美しい?」と「本を捨てる」を空白によって要素分けしているのです。そうなることによって、視覚的に、Aの悪文は1の意味がより強まった印象に捉えることができるでしょう。文章の中に組み込まれれば、悪文として見られることもないかもしれません。

 要するに記号の直後に空けられる空白というのは、句点の役割を持っているのではないか、と思うのです。「私は美しい?。本を捨てる。」こうなるともはや完全に二文にグループ分けされます。
 微妙な差異ではありますが、この視覚的な違いから、Web環境でも空白は空けるようにしているのです。


 さて、では記号の直後に、三点リーダやダッシュが続いたらどうしますか?

A. 私は美しい? ……本を捨てる。
B. 私は美しい?……本を捨てる。

 先に言っておきますと、自分はこの場合に限り空白を空けていません。これもまた、そのほうが個人的に見やすいからです。
 記号の後に三点リーダが来た場合に、空白を空けるか否か。これはWeb以前に、紙の出版物の時点で違いが見受けられました。空白を空けている書籍もあれば、空けていない書籍もあるのです。
 空白を空けていない小説作品として、安倍公房の「砂の女」を挙げてみましょう。少し引用します。
ちょっと、不真面目な印象をあたえすぎるんじゃないですか?……そうでしょうか?……いくら強烈な体験であっても、(中略)せっかくの体験が泣いてしまいますよ……畜生!……なんです?……どこかで下水の掃除をやっているのかな? それとも、廊下にまいた消毒液と、先生の口から出るにんにくの分解物とが
-安倍公房 1981, 『砂の女』, 新潮文庫, p.107
 ご覧のとおり、疑問符・感嘆符の後に来た三点リーダは、そのままつなげて書かれています。後ろに「それとも」が続いている部分の場合では、疑問符の後に空白が入っていますから、無造作に空白を詰めていたわけでないこともおわかりになると思います。
 この作品の特徴として、疑問符・感嘆符+三点リーダの記述が多く見受けられる点があげられますが、ではもしこの文章がすべて記号の後に空白を入れていたとしたらどう見えるでしょう。
 引用ですので実際に空白を書き加えて見比べることは控えますが、テキストファイルなり開いて試してみられるのも良いと思います。結論から言うと、疑問符・感嘆符+三点リーダの記述が多ければ多いほど、そしてその頻度が高ければ高いほど、空白が入ると読みにくくなります。
 先ほど「近接」の原則を話に出しましたが、前述の「私は美しい~」の比較とは逆に、こちらはグループが分割されすぎるがために、読みにくくなるのです。上記の引用文の疑問符・感嘆符をすべて句点に置き換えてみてください。いちいち文の始まりに三点リーダが入るくどい文章になったことかと思います。ではそこから句点を省いてみてください。文意も見た目もおかしくはなりませんし、むしろすっきりしたとは思いませんか? 先ほども述べましたようにこの空白とは句点の役割といえるのですから、以下のような違いになっているのです。

A. 私は美しい。……本を捨てる。
B. 私は美しい……本を捨てる。

 個人の印象といわれればそれまでかもしれませんし、ことに三点リーダやダッシュを使用する際は、その直前直後の句読点はあってもなくても問題ありません。しかし上記のような違いがあるのではないのかと個人的には考えており、そのために「個人的に見やすい」空白なしのほうをこの場合採用しています。


 私事ですが、数年前某所に拙作を掲載していただいたとき、本文の校正をしていただいたことがあります。その際誤字や誤用などを修正していただいたのですが、疑問符の後空白をいれずに三点リーダを続けていたところに、空白を入れられて公開されてしまい、少し悔しい思いをしました。些細な点ですし、校正が入ることには事前に同意していましたので、文句は言えないのですが、こういう微細な点にも作者の意図が含められていることがあるということは、理解してもらいたいものです。
 自由なアマチュア作家だから言えることなのかもしれませんけどね。

プロットあれこれ

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 自分のプロットの作り方を紹介します。
 自分なりの主なプロット作成手順は、以下の通りです。

1.頭のなかで常に漂ってるアイディアたちが何らかの拍子で閃きに変わる!!ドドン
2.閃いた設定やストーリーラインを文字に書き起こす(プロット)
3.本文を書き起こす(原稿)

 めっちゃ普通やな。ということで実例をいくつか。

音楽小説について

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 さてさてやってきました創作論エッセイのコーナーです。違うなこんなテンションではなかったはず。久々に書くから勝手を忘れてしまった。
 まあそのためのブログでの草稿連載なのですけどね。

 今回は、「音楽小説」について。
 音楽小説ってなんぞや? 簡単にいえば音楽小説とは、「文字による音楽」です。だから音楽小説というより、並び替えて小説音楽といったほうが語義としては近いかもしれません。音楽小説とはその名の通り、音楽(インスト)のような小説のことなのです。

 枠組みを詳しく見ていきましょう。文章で音楽を作るということはつまり、ラップのようにリズミカルにストーリーを語ることなのか。それも音楽小説に含むでしょうが、ここではあまり、そういう意味は含みません。なぜなら「ストーリー」は必要ないからです。
 なにかインストを思い浮かべてみてください。きっとそのインストには、物語があります。しかしそれは、筋の通ったストーリーではありません。おのおの聴き手(≒読者)が、自身のなかで再構築する物語です。物語がなくても問題ありません。音楽を聴いているときの、あの明言しにくい抽象的な感覚、ぴかりと受け手のなかで光るインスピレーション。それを言葉によって引き出すのが、音楽小説なのです。

 難しい言い方になってしまいましたね。まあ簡単に言って、インストのような小説、ということです。
 ではこの音楽小説は、どのようにすれば書くことができるのでしょう? 音楽にしかできないあの抽象的な感動を、小説で再現することができるのでしょうか。

 まず共通していえることは、ある程度は、「言葉」からその「意味」を排さないといけないということです。「りんご」という言葉を出すとき、ここからあの赤い果実のイメージを払拭させて、ただ「りんご」という言葉の殻だけを残す。りんごの形、味、象徴しているものなどを排他して、ただの「りんご」を残す。あくまでこれは一例ですが、ある程度はこの作業が必要になってくるのが音楽小説です。

 方法はまだ模索中ですが、いくつか簡単に紹介いたします。
 まず一つ目。「なにも考えずに書く」。
 どうしても文章は言葉を必要とするものですので、文章を書こうとすると文章の意味を考えてしまいがちです。それをやめにして、なにも考えずに、ただペンを走らせる、キーを打つ。ただしこれはシュルレアリスムの自動記述とは異なります。自動記述の説明を入れると無駄に長くなるので省きますが、音楽小説での「なにも考えない」とは、言葉の意味を考えないという意味であって、ほかに考える必要のあるものがあります。それはリズムです。言葉の意味は考えなくていいけど、言葉のリズムを考える。
 要するにメロディーを作る作業です。このとき考えるべきなのは「りんご」が赤いとか甘いとかそういうことではなくて、「りんご」という3音がその文章のリズムに合っているかどうかということ。自動記述とは違い、そういう言葉(=音符)のつながりを「意図的に」執筆していく。

 二つ目。これはある方からの受け売りです。「実際にインストを聴いてそれを自分なりに文章に興す」
 そのままですね。これが一番やりやすいかもしれません。実際になにか、インストを聴きながら、そのときに感じる抽象的なものを、感じるままに文字におこしてみる。著作権は気にする必要はありません。それは盗作やアイディアの流用ではなく、インスピレーションを受けて新しいものを書いているにすぎませんから。むしろ著作権違反になったら面白いかも。この小説はわたしのインストを盗作しています!なんだか想像が広がります。
 ただし歌詞のある音楽を使用してはいけません。歌詞には言葉の意味がありますから、筋のあるストーリーが既に作られています。それを文字におこすというのは、他人の小説を自分で書き直しているにすぎない。意識せず歌詞をそのまま書いてしまうこともありますからね。そしたらあな恐ろしや。

 三つ目。「言葉の組み合わせをおかしくする」。
 これは逆に、言葉の意味を意識しながら文章を書く方法です。「りんご」は赤いし、果汁たっぷりだし、ときに作品によっては智恵を象徴したりします。聖書にはりんごだなんて一言も書いてませんけどね。それら言葉の意味を、きちんと意識したうえで、そのつながりをおかしくする。あべこべにしちゃう。
 それはきっととても難しい作業になるでしょうが、最終的に出来上がった文章は言葉の意味のつながりが不規則になって、言葉の意味を意識して書いただけに、言葉の意味が崩壊した文章ができあがる。そしてその抽象的な印象は、音楽を聴いているときのあの印象に近づけていることでしょう。


 書き方紹介は以上です。これはまだまだ模索中ですし、自分も練習中ですので、まだまだ方法はいろいろあると思います。

 音楽小説。これ実際に書いてみるとわかりますが、すっげえ面白いんです。まあ人によるでしょうけどね。音楽が好きな方は楽しめるんじゃなかろうか。
 しかしここで問題があります。作者としてはめちゃくちゃ面白いけど、読者にとってはどうなのよ、と。
 ストーリーがないのですから、当然読者を楽しませるのは困難です。ストーリーのない物語を楽しませるには、どうすればいいか。ひとつだけ例を挙げるなら、「最後の一文だけはストーリーを含ませる」というのがあります。初志貫徹できてないじゃないの、と言われそうですが、最後の一文で綺麗に締めくくって、余韻を生み出すことで、完成度は一気に高まるのですよね。最後良ければすべて良し、というわけではありませんが、物語に形の見えないメリハリが生まれます。現在見つかっている手法のひとつです。
 読者を楽しませる。新しいことをしようとすればするほど、これは実に難しい問題として現れてきます。いかにして楽しませるか、いかにして「面白い」音楽小説を作り上げるか。この問題も同時に考えていかなければ、所詮音楽小説は音楽の二番煎じにしかなりません。まあ個人的には、それでもいいとは思うのですけどね。さらに上を目指すには、「新しさ」と「面白さ」は切っても切れない関係にあるのかもしれません。

 というところで、今日はここまで。

語り部について

2011年に「ジュピター」にたくさんのご感想をいただいてから、語り部についてはいろいろ考えているのですが、そろそろその中途報告をエッセイという形で残しておいたほうがいいかな、と思いました。語り部については、拙作「第ゼロ章」ですでに方向性を宣言をしているのですが、今回はその宣言をフィクションからノンフィクションに書き換えてみようと思います。

 とりあえず今回は書きたいことだけ。

 よく、一人称では許される表現、というのがありますよね。人によって程度の差はあれ、一人称では、地の文であっても意図的に誤謬、間違ったことを書くことができます。一人称はその語り部(=登場人物)の「主観」によって書かれる物語ですから、偏見や先入観、誤った知識などを盛り込むことができるわけです。“記憶”を題材にした一人称なんてその代表で、バイアスのかかった語り部の記憶と、実際の過去の出来事とを比較して展開するストーリーなど、よく見られるものです。叙述トリックで一人称が推奨されるのも、そのほうが叙述の許容範囲が拡がって、比較的簡単になるからですね。
 でも、考えてみれば、なぜ三人称でこれをやってはいけないのでしょう? 世の中にはトンデモ本と呼ばれる楽しい本や、筆者の偏見によって書かれたコラムにまみれています。報道記事だって新聞によって見方・書き方が異なったりしますよね。それがどの程度までマニュアル化されて書かれているのか、自分は知りませんが、広く知れ渡っている「文章」というものには、たいていは筆者の「主観」が介入しているものです。同じ内容の文章を書いても、作者が異なれば大きく違いが現れるのはそのためです。
 だから、一人称では許される表現、というのを、三人称でも書いてみる。三人称の語り部(Not登場人物)に、偏見や、先入観や、誤謬や記憶などの「主観」を与えてみる。それはもちろん、「作者」とは別の存在です。すると語り部にキャラクター性が付与され、一気に信頼度が歪みだし、「読者」と「語り部」の間に、距離ができあがる。物語に対する「読者」の解釈に、可能性がうまれる。そうすることによって「物語」は、ただ享受するだけの“ストーリー”ではなく、「読者」それぞれの個性と密接にかかわった、“ナラティブ”の姿をえがきだす。

 というところで、今日はここまで。

キャラクター造形について

いい加減この連載も定期的にやっていきたいな、と思わなくもないけれど、たぶん無理です。こうして気の向いたときに、そのうえで時間がちょうどありそうなときに、ちまちま続けていけたら御の字なんだろうなぁ。
 現時点での構想では、ここで連載している草稿がある程度たまれば、埃城のほうで体裁のととのえたやつを連載して、それが完結したあとに、決定版のを小説家になろうかどこかに投稿しようと考えているが……何年後になることやら。

 なにはともあれ、今回はオーソドックスに「キャラクター造形」について。

 小説にはキャラクターが登場する。もちろん、近代小説やらで「文」と呼ばれる描写だけを抜き出したようなジャンルや、概念や現象だけを切り取ったような、登場人物ゼロの小説も存在する。小説じゃないけど、第10回アカデミー賞を受賞した短編アニメ『風車小屋のシンフォニー』(原題:”The Old Mill”)なんかは、登場人物とか登場動物とかいうものは存在せず、ただ自然のありかたひとつを「景色」として描き出している作品のように思う。この辺の話はまたいずれ書くとして、さてキャラクター造形の話。

 キャラクターってどうやって作ればいいのだろう?
 どうやれば人間を書くことができるのだろう?
 そう考えながらプロットを立てていく。人それぞれ、作り方は多種多様にある。そのなかで個人的に、好んで使っている作り方もあれば、苦手としている作り方もある。今回はそれを紹介する。

 まず、苦手としている作り方がある。それはプロフィールを書くことだ。
 漫画のファンブックとかによく書かれているあれ。アニメの公式サイトを覗いてみるとキャラクター紹介のところによく書かれているあれ。このキャラクターはこれこれの性格をしていて、家族構成はこれこれで、血液型はAB、身長なになに、体重ひみつ、あんどもあ。プロットの段階でこれを書くのは、非常に、苦手だ。
 一度、プロットを突き詰めて書き込んだことがある。そのプロットでは、主要キャラクター一人につき、以上のようなことがノート見開き2ページにわたって書き込まれていた。作品を書き始める前から、主人公は面倒臭がりで、ヒロインはガサツでありながら細かいことによく気が付く性格で……とプロフィールを羅列していた。
 しかしどうにも、なぜ文章を書き始める前からこのキャラクターはこういう性格、と決定付けなければならないのだろう。当のキャラクターは、まだ登場さえもできていないのに。
「性格」というものは、難儀なもので、その対象を見る者によって、見る時期やタイミングによって、評価はだいぶ変わってくる。たとえば勉強のできる中学生がいたとして、その子は学校の教師からはまじめと評されるも、よくつるむ同級生たちからは、まったく異なる性格に見られているかもしれない、基本的にそういう生徒は教師にたいしてはまじめな態度をとるものだから。そしてまた、あまりつるまない同級生からは、がり勉などと評されるかもしれない。「まじめ」と「がり勉」は、そのクラスにおいて等しく勉強ができることを指す性格であっても、印象はまったく異なる。プロットにその中学生(別に高校生でもいいんだけど)を「まじめ」と書くだけでは、その一面性しか見えていないことになり、もったいない。だから「がり勉」と書き加える。それでも見えてくるのは一面性を明かりのある場所ない場所それぞれで見ているだけに過ぎない。今度は、よくつるむ同級生たちの見ているその子の性格をプロットに書き込まなければその新しい一面は見えてこない。そして今度は家族から見た性格、家族のなかでも母親の見ているものと、父親の見ているものでもだいぶ異なるかもしれない。そして困ったことにその「性格」というものは、中学生が背を伸ばすと同時にいちいち変わってゆくものなのだ。それらすべてをプロフィールに書いていれば、とてもではないが見開き2ページなんかでは足りなくなる。そして実際のところ「すべて」を書くことはできないのだ。
 ……長くなったが、要するに、「性格」は決して要約して書くことのできる代物ではなく、プロットに「性格」を書き込んだとしても、それはほんの一部を書いているにすぎないのだ。要約して書けないからこそ小説を書くのであって、プロットで完成できてしまえるのなら、小説を書く必要はない。また、それらの無理やりな「要約」は、キャラクターの可能性を閉じ込めることにもなりかねない。それが狙いなのであればともかく、プロットの段階からキャラクター造形を(特に性格)を決定してしまうのは、登場人物をはりぼてにしてしまう行為に思えるのだ。
 というのは、まあ個人的にいろいろと失敗して感じたことで、合う人がやればうまくいくと思いますです。すみません。

 で、ここからがおすすめの方法。

方法1「ちょっとだけ本文を書いてからプロットを作る、キャラクター造形を決める」
 さきほど、登場人物が登場するより先に「性格」ができているのはおかしい、といったようなことを書いた(気がする)が、だったらまずは登場させてから、その対象物を「見て」、作者という「人間(≒登場人物)」として、性格付けをする。つまり先ほどの例の中学生をひとまず作り、それに対して、教師や同級生と同じように、その中学生を「評する」ということだ。さきほどとの大きな違いは、作者は「性格」を作っているのではなく、「登場人物」を作っていることにある。「性格」は作者が作らずとも、「登場人物」に付随してやってくるものであり、またそのほうが自然な性格が生まれてくるのだ。
 で、そのレベルアップ版みたいな方法が、
 方法1-2「その登場人物が主人公の短編を書く」
 というものだ。これは時間的に厳しいことが多いので、自分もあまりやらないが、一個の完成した作品があれば、その主人公なんて、そりゃあもう対象物としては最適だろう。なんせ完成しているのだから。作者はその主人公を「見て」、ああ、こいつはこういうやつなんだ、と納得すればいい。

方法2「もう最初っからキャラクターを作ることをあきらめる」
 はいあきらめた! いつもの悪い癖すぐあきらめる! もう寝る!……しかし、あきらめることもまた、方法なのである。
 キャラクターは突き詰めればただ行動することができればなんでもいい。もう行動もいらないかもしれない。というかキャラクターってなんだ? なにをすればキャラクターなのだ?
 キャラクターが描けないのならばストーリーで魅せればいい。キャラクターなんて難しいことは考えていないで登場人物はすべて番号でもふっておけば行動くらいはできるだろう。
 なによりもストーリーを優先し、「この展開にするためには02番にこう考えさせる必要があるな」「この展開にするためにはここで01番に悲しませておけばいいな」と、ストーリー展開から逆算して登場人物の行動・思考を合理的に積み上げていく。
 そもそもキャラクター造形なんてものは、ストーリーの展開すべてのなかで、登場人物に一貫性を持たせる(矛盾を生じさせない)ためにあるようなものでもあって、もうあきらめちまえばどうにかなるよ。これまじで。

方法3「現実の人間を下敷きにする」
 ※禁じ手。
 ほどほどに……。訴えられない程度に……。つーかばれない程度に。


 あと1つ2つあったはずなんですが、書いているうちに忘れてしまいました。備忘録としてもこういう創作論みたいなもの、やっぱり書いておくべきなんでしょうね。どうせまたひょっこりと思い出すと思いますので、そのときにでも、時間と気力があえば、草稿を載せていく予定です。

 あとキャラクターつながりでもうひとつ余談。
 女を書く、とか、男を書く、というのは、個人的にあまり考えないようにしています。自分は自分とまったく同じ男を、自分のほかに見たことはありませんし。数年間ぼくっ娘ばかり書いてきて思ったことなんですが、女を書くとか、男を書くとか、そんなことしても結局おんなじ人なんていないんですから、ひとりの「人間」を書けばいいじゃない、と思うんです。上記の文章に照らして言うなら、「女を書く」「男を書く」という意識の時点で、登場人物の可能性を閉じ込めてしまっている。アニムスとかアニマとかいろいろありますからねぇ、そういう多様性のあるキャラクターを、書いていきたいもんです。

 ではまた。気の向いたときに。

「独特」を意図的に作るには

さっそくだが、「独特な文章」というものには2種類がある。ホンモノか、ニセモノかの2種類だ。

(作品を読んでいると、その作品がどのカテゴリにあるかは関係なく、「独特」だと感じることがある。その“感じ”、抽象的なその感じを、ここでは「独特」という言葉の意味だとしよう)

 ホンモノの「独特」は、他の作品群と比べることはできない。
 比較、という枠組みからはずれ、ときにジャンルからもはずれ、
 説明や解説が野暮以外のなにものでもなくなるもの、それがホンモノの独特だ。

 では、ニセモノの独特とは。
 “――独特は作れる。”
 他の作品群と比べたうえで、“数値的に”逸脱すれば、それは「独特」になりえるのだ。

「文体診断ロゴーン」*1の参考テキスト64作品*2統計によると、文体の平均値は以下のようになるという。
  • 平均文長:52.20文字
  • 平均句読点間隔:17.53文字
  • 特殊語出現率:11.60%
  • 名詞出現率:28.66%
  • 動詞出現率:9.75%
  • 助詞出現率:29.48%
  • 助動詞出現率:12.08%
  • ひらがな出現率:54.03%
  • カタカナ出現率:0.81%
  • 異なり形態素比率*3:23.24%
 あくまでこれはひとつの参考に過ぎないが、この平均値をふまえたうえで、意図的に平均値を逸脱した文章を書けば、それは「独特な文体」になる。
 拙作を引き合いにすれば、オノマトペの比率を大きく高めたり、一文をとにかく長くしたり、改行の頻度を極度に高めたり低めたり、……などがある。

(文体だけでなく、題材やストーリーでも「独特」は作ることのできるものだが、その話はまたいつか)

 であるから、「独特」を意図的に作りたいのであれば、その他の「独特でない」平均値を知る必要がある。インプットはその役割も担っているのだ。
 本をさほど読まずとも小説らしきものを書くことはできる。その他の映画や漫画や音楽など、そして実際の経験からインプットしたものを下敷きにすれば、本だけを下敷きにしたよりもずっと良質な小説が生まれるからだ。しかし、「文体」の意味においては、本をインプットするのはとても大切なことだ。

(ところで、これは同時に「小説を書きたければ本は読むべきではない」という言葉の裏づけともなるかもしれない。最初から平均値を知らなければ、平均に踊らされる心配もなく、純粋にはじめからあった自分の文体を紡ぎだすことができるかもしれないからだ――まあ、それは要するに、自分がはじめから有しているもの、つまり才能に頼る形になるので、あまりおすすめできない)
 
 なお、ジャーナリストであり作家である穂高健一は、エッセイにて「句点(。)は平均して45文字ていど」「読点(、)は平均的に15字前後」の間隔で入れるのが最も読みやすいと述べられながら、文章にも老齢化――つまり年齢層による傾向があることに言及されている。いわく年配者ほど句読点が少なくなる傾向があるのだそうだ*4。平均をはかり独特の境界線を見極める上では、自身の作品を読む人の年齢層も意識する必要があるらしい。

 ホンモノの独特を修得するには、とてつもない努力と経験が必要になるだろうが、ニセモノの独特(しかし本質的にはホンモノの独特の同等のものだ)はわざと「みんなとちがうこと」をすればいいのであるから、「みんな」がなにか見えている分、やりやすい。
 しかしともすればそれは、単なる「読みにくい」文章だ。「独特」という言葉がときに苦笑いのお世辞として使われる言葉であることを鑑みれば、「独特」と「受け入れにくい」ことは背中合わせではあるのだろうが、この問題を解決しない限り、たとえそれが少しの労力で効率的に作り上げることのできた独特であったとしても、効用は薄いかもしれない。
 独特は作れる。では、作ったとして、その先にあるものはなんだろう?

 今日はここまで。ではでは。



*1:http://logoon.org/
*2:芥川龍之介「杜子春」、太宰治「桜桃」、宮沢賢治「風の又三郎」、夏目漱石「それから」、海野十三「東京要塞」、岩波茂雄「読書子に寄す」、菊池寛「恩讐の彼方に」、九鬼周造「「いき」の構造」、幸田露伴「蒲生氏郷」、坂口安吾「堕落論」、三木清「語られざる哲学」、寺田寅彦「漫画と科学」、小林多喜二「蟹工船」、新美南吉「ごん狐」、森鴎外「ヰタ・セクスアリス」、西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」、石原莞爾「最終戦争論・戦争史大観」、石川啄木「病院の窓」、中原中也「我が生活」、中島敦「山月記」、直木三十五「巌流島」、島崎藤村「破戒」、徳冨蘆花「謀叛論(草稿)」、福沢諭吉「学問のすすめ」、北原白秋「白帝城」、北村透谷「厭世詩家と女性」、末弘厳太郎「嘘の効用」、有島武郎「或る女」、浅田次郎「スターダスト・レビュー」、井上靖「道」、遠藤周作「白い人」、阿川弘之「年年歳歳」、阿刀田高「靴の行方」、井上ひさし「あくる朝の蝉」、岡倉天心「美術上の急務」、紀田順一郎「南方熊楠」、吉川英治「べんがら炬燵」、江戸川乱歩「押絵と旅する男」、佐高信「遺言と弔辞」、三田誠広「碧眼」、三島由紀夫「女方」、志賀直哉「邦子」、小田実「玉砕」、松たか子「松のひとりごと」、松本幸四郎「役者幸四郎の俳優俳談」、川端康成「片腕」、大宅壮一「「無思想人」宣言」、谷崎潤一郎「京羽二重」、猪瀬直樹「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」、田中美知太郎「古典教育雑感」、梅原猛「闇のパトス 不安と絶望」、野間清治「『キング』創刊前後」、和辻哲郎「偶像崇拝の心理」、吉田茂「第18回国会所信表明演説」、岸信介「第26回国会所信表明演説」、池田勇人「第37回国会所信表明演説」、佐藤栄作「第47回国会所信表明演説」、田中角栄「第70回国会所信表明演説」、中曽根康弘「第97回国会所信表明演説」、橋本龍太郎「第139回国会所信表明演説」、小泉純一郎「第151回国会所信表明演説」、麻生太郎「第170回国会所信表明演説」、団藤重光「反対意見」(最大判昭和56年12月16日民集35巻10号1369頁)、伊藤正己「反対意見」(最大判昭和63年6月1日民集42巻5号277頁)の64テキスト。テクスト数はさほど多くなく、近代寄りの作品郡であるため、“現代”の平均値と捉えることができない点を考慮されたい。
*3:文章中で一度しか出ていない形態素の割合
*4:「第46回・元気100エッセイ教室=文章の若返り」、穂高健一ワールド、http://www.hodaka-kenich.com/Novelist/2011/02/04014115.php、2013年11月9日閲覧

「個性的」と「奇を衒う」

 ちょっと雑記。

 人によるでしょうが、作品を組み立てる際、ほとんどの方が「普通と違う、自分だけの」作品を目指そうとするんだと思うんですよね。では「普通と違う」とはなんなのか。「自分だけの」とはどういったことを指すのか。
 まず前置きとして、「自分だけの」は「普通と違う」に内包されていると考えて話を進めますね。檜や松が「木」に内包されてるみたいな感じです。一応。
 んで、「普通と違う」作品を起こす方法は、大まかに2種類あると思うんです。

 それが、「個性的」と「奇を衒う」。

 まず「奇を衒う」を自分なりに述べますと、「他のものと比べたうえで、他のものと異なるもの」って感じになります。例を挙げますと、最近流行り(?)の「僕の○○は□□~」系のタイトルで、主人公を僕っ娘にしたりだとか。近ごろ長いタイトルが多いなぁと思ったのなら、いっそのことタイトルを1文字だけにしてみたり。童話をみんなで書こうというとき、子どもには理解できないような設定(法律など)を入れたりだとか。(実は自作語りだなんて口が裂けても言えないw)
 こういうのって、その「他のもの」があるからこそ成り立っているんですよね。マイナー嗜好とかいうやつもそうです。メジャーがあるからこそマイナーが光る。そういう作品を僕は「奇を衒う」作品だと思っています。(※マイナー=「奇を衒う」という意味ではないです。むしろ逆な気がします)

 では「個性的」とはなんなのかといえば、「他のものと比べられない異なるもの」って感じなんだと思うんです。こうだからこう、ではなくて、ただそこにあるというような。例を挙げると、梶井基次郎の『檸檬』や、フランツ・カフカの『変身』でしょうか。「みんなは画集の上に檸檬なんて置かなかったから、自分は置いちゃうぜよ」とか、「朝起きてみてもみんな人間のままだから、ザムザは毒虫になってみたよ!」とかそんなわけないですよね。これは「みんな」と比べているのではなくて、ただ「檸檬を置いたり」「毒虫になったり」しただけ。みんながしなかったからしたのではないんですね。

「個性的」も「奇を衒う」も、どちらも「普通と違う」に属します。けれども、「自分だけの」に入るのは、「個性的」だけなんじゃないでしょうか。「奇を衒う」は、他のものがあってこそ成り立つ、つまり、元よりある尺度に従わないといけなくなるんじゃないかな、と。身長とか体重とか、ヒトが世界で自分ひとりだったら気にしませんよね。比べるものがないのですから。

 まあ「奇を衒う」作品というのも、その設定を深く深く掘り下げていったなら、他のものとの溝が大きくなって、「個性的」に至るような気もします。世界観ってやつですか。
 それに、「個性的」だから良い作品だとも限らないわけですよね。むしろ個性的だから読めない、とかいわれたりもするでしょうし。あれ、つまるところ僕はなにが言いたかったのだろう……。
 すんごい偏見で言いますけど、僕は「奇を衒う」と「個性的」では、「個性的」なものを作るほうが楽しいです。ですけど実は、読んでて楽しいのは「奇を衒う」ほうだったりするんです……。


 以上、ここ半年間ほどの活動で思ったことについての雑記でした。
        

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小伏史央(こぶせふみお)

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